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第3回広島大学ホームカミングデー参加報告

今回で3回目を迎えた広島大学ホームカミングデーが平成21年11月7日に広島大学東広島キャンパスで行われました。これまでは各学部で開催されており、霞キャンパスでも霞地区合同で開催されていましたが、今年は広島大学創立60周年記念事業として豪華なゲストを招き東広島キャンパスのみでの開催となりました。

さて今回は10時30分より記念式典が行われ、最貧国の自立システム確立を目指す細胞学者、 アメリカのゴードン・ヒサシ・サトウ博士、欧州原子核研究機構(CERN)で未知の素粒子発見に挑む、ヨーロッパの川本辰男博士、『青春の門』、『大河の一滴』等の文学作品で有名な五木寛之氏の学術講演会や、雅楽奏者や俳優としても有名な東儀秀樹氏の雅楽公演、さらにカープの初優勝に貢献し連続試合出場の世界記録を樹立し国民栄誉賞にも輝いた衣笠祥雄氏の文化講演会『限りなき挑戦』が開催されました。この衣笠祥雄氏の文化講演会が霞地区の合同企画として開催されました。

一開業医の私は新型インフルエンザ騒動で混み合った外来を何とか午後1時で切り上げ、車を飛ばして東広島に行き、どうにか2時30分からの衣笠氏の講演会に間に合いました。生まれも育ちも広島の私にとりまして昭和50年カープの初優勝に多大な貢献をされた衣笠氏はスーパースターであり、講演に間に合わすためついつい車のスピードが上がっておりました。

会場のサタケメモリアルホールには原田元学長を含め多数の医学部関係の先生方が貴賓席に招待されておられました。

衣笠氏の講演内容を簡単にまとめてみます。

氏は力いっぱいバットを振ってボールが遠くまで飛ぶことが面白く野球にのめりこんでいかれ、中学校では弱いチームに所属していたため指導者にも恵まれず、身近な先輩の姿を手本に一生懸命頑張り、少しずつ成果が表れますます野球を楽しいものと感じたそうです。当初は高校で野球をすることは考えておられなかったようですが、中学野球で京都大会の決勝戦を西京極球場でプレーしたことにより、より大きな球場で、すなわち甲子園でプレーすることを新たな目標として平安高校に進学されました。それまでの小さな野球部から、一年生だけで200人以上の平安高校に入学した時は、目の前が真っ暗になったそうです。しかし『甲子園で入場行進をすること』、『4番キャッチャーで出場すること』を目標にあきらめずに頑張られ、2年生の秋に監督から6番ファーストに指名されました。しかし氏は『これでもいい』とは考えず、いつ4番キャッチャーに指名されてもいいように準備を続け、事実『4番キャッチャー』で2度の甲子園出場を果たされました。

その後カープに入団し、1年目、2年目は『一生懸命』努力するのですが、その努力はコーチの言葉に従ったものであり、人に言われて人のために練習していたようだったそうです。その『一生懸命』には『己』というものがなかったそうです。3年目に根本睦夫ヘッドコーチから『今年は一軍では使わない。時間をやるからしっかり衣笠を作ってこい』と言われ、自分のセールスポイントは何かを考え、それは『年間20本のホームランを打つ長打力だ』との結論に至り、『一生懸命』に『己』が加わり、ひたすらフルスイングの練習を開始しされました。肉体的苦痛に加え、『本当にこれでいいのか』という精神的苦痛に耐えながら毎日フルスイングの練習を繰り返したそうです。3年目の8月20日の巨人戦で代打出場し、この一年バットを振り続けたという自信を持ってフルスイングしたそうです。結果は三振でしたがスピードには負けていませんでした。当時の速球投手ベスト5の堀内投手からの三振であり、逆に『このスピードボールに対抗できる』という実感が『これで野球で飯が食える』という自信になり、その年にはホームラン2本を放ち、翌年昭和43年根本監督時代より一軍に定着しました。根本監督時代に基本と基礎をたたきこまれ、昭和50年、ルーツ監督のもと徹底的な意識改革によりチームは初優勝を果たしました。このあたりはみなさんよくご存じのエピソードなので割愛します。山本浩二選手とカープの二本柱となった氏は、それまでの練習は一生懸命自分のためにするものでしたが、このころよりチームのことを考えて行うという『志』が芽生えてきたそうです。

今回の講演のキーワードは『一生懸命』でした。講演の最後のことばも『今日できる精一杯の努力をおこなうこと、それができれば後悔しない。』というものでした。最近の人たちに必要な言葉だと感じました。氏の諦めず自分を信じて精一杯努力する姿勢に感動した一時間でした。

今後毎年11月の第一土曜日にホームカミングデーが開催されますので、是非皆様もご参加いただければと思います。(竹本元義)